いしぷろ日記

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つれづれ連載第17回「20年、フリーライターやってます」~やりたいという気持ちほど強いものはない

 編集長の仕事は3年続けました。その間、いろいろなことがあったのですが、詳細はもうちょっと時間が経って時効になってから……。とはいえ、私のみっともない経験については誰にも迷惑がかからないので少し書いておこうかと思います。

 Webマガジンの創刊が決まり、日々更新する記事をどうやって集めるのか、キラーコンテンツになにを据えるのか、デザインは? 写真は? イラストは? 制作チームとの連携は? などなど考えることは山ほどありました。その頃は、人脈もほとんどなかったのでイチから人探しをし、金額交渉をし(相場もわからないのに!)、とにかく手探り。多少雑誌の仕事をしたとはいえ経験は浅く、ベテランのライターさんから「そんなことも知らないの?」と叱られることもしばしば。

 ありがたかったのは、H氏は余計なことは言わず好きなようにやらせてくれたこと。たぶんH氏は、私が「こうしなさい」と言われるとやる気をなくすタイプだとよく知っておられたのだと思います。放ったらかしにされて、「やっばーい!どうしよう!!」と追い詰められてからのほうががぜん頑張るタイプなのでした。

 企画会議で、目玉コンテンツの一つに、毎月著名人にインタビューをするというコーナー(ありがちですが……)を提案したときのこと、「それ、本当にできるの?」「毎月毎月、著名人をどうやって引っ張ってくるの」「どうしてもそれをやる理由は?」と問い詰められました。何か論理的な答えを求められているのだろうけど、そんなものはありません。ただ面白そうだからやりたいという私のミーハーな願望でしかなかったのです。
 どよーんとした沈黙を破ったのは私。
「そ、それは……、私がやりたいからです!!」
 まさに「窮鼠猫を噛む」とばかり言い放つと、H氏は破顔して言いました。
「だったらできるんじゃない? やってみたら」
 え? そんなんでいいの? 思わぬ展開にぽかーんとしていると、
「だって、やりたいという気持ちほど強いものはないから」
とH氏。なるほど。そう言われると「絶対やってみせる!」と闘志がわいてくるのでした。今思えば、H氏の思うツボだったのかもしれませんが……。

 そんなこんなで、華々しいプレス発表までしてwebマガジンはスタートしました。最初のPVは、1日200とか300。手をかけお金もかけたコンテンツがわずか300人にしか読まれていないのか……と愕然としたことを覚えています。3万人の目標を掲げた購読会員も、なかなか増えない。じりじりと苦しい日々が続いたのですが、会員数が1000の山を越えた頃からでしょうか、ぐいぐいとPVが上がり始め、会員数はあっという間に1万、2万と増えていきました。そして一時は「この業界では最大」と言われるほどのwebサイトになったのでした。

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つれづれ連載第16回フリーライター20年やってます~webマガジンの編集長になってしまうの巻

 まだ20代、会社に勤めていた頃のことです。
 社の創業80周年記念行事の企画を担当させていただいたことがあります。時はバブル。国内外から著名なゲストを招いての大がかりなイベントでした。基調講演の講師は、ダニエル・ベル氏。『脱工業社会の到来』という著作で世界的に知られていた社会学者です。彼の講演録や社長対談をまとめた記念誌の編集も担当したのですが、ベル氏の言葉で忘れられないひと言があります。

 社長対談の中でのことだったと記憶しています。「これからどんな仕事をしていきたいか」という質問に対し、彼は、
「身近な友人にほめてもらえるような仕事がしたい」と答えたのです。
 正直、「え、それだけ?」と思いました。世界的な著名人の答えにしてはなんかスケールが小さい、と拍子抜けしたのです。それがずっと引っかかっていました。

 でも、最近になって、「なんとなくその気持ち、わかるわかる」という気がしています。
 少し前の私は、自分の名まえが載る記事が書きたい、名まえが残る本を出したいと切望していました。でも最近は、名まえなんて出ても出なくてもどっちでもいいや……という気分なのです。営業的には、載った方がいいには違いないのだけど、そんなことよりも取材をした人にすごく喜ばれるとか、記事が読者に喜ばれることのほうが嬉しいし私にとって大事なのです。だから「身近な人にほめられる仕事ができれば満足」というベル氏の言葉が今、とってもしっくりくるのです。

 が、15年くらい前はまだ、名まえを出したい!と野心をたぎらせ、方向性を模索していました。
 そこへ、願ってもないというべきか、大きなチャンスが巡ってきました。

 それは、ある企業のwebマガジンの編集長というポストでした。今ではめずらしくもないですが、当時はまだ、手作りっぽいwebサイトはいろいろあるものの、本格的なwebマガジンというのはあまりなかったのではないかと思います。それを、社内ベンチャー的に作ろうというプロジェクトに、私も関わることになったのです。最初は、立ち上げ期の企画づくりをお手伝いするだけのつもりだったのですが、1年がかりで細々と続いたプロジェクトは、社長プレゼンという最終段階を迎え、私も勝負スーツを買ってプレゼンするという思わぬ展開に。がんばったのは私の雇い主であるH氏や若手のK氏で、私はおまけでしかなかったのですが、めでたく社長プレゼンを通り、webマガジンはスタートすることになったのでした。

 で、だれがやるの? え!? 私!?? ひ、ひとりで!? 

 まさかの展開でしたが、編集長という言葉のカッコイイこと。これは飛びつくしかない。しかし、一方で不安もいっぱい。
「せっかくライターとして本も出して、連載も取れて、これからバリバリ売り込んでいこうと思ったのに…」「小学生になったばかりの子どもは? 鍵っ子になるわけ?」「だいたいwebマガジンってどうやって作るの!!??」

 迷っていた私の背中を押したのは、H氏のひと言でした。
「Tさん(私の昔の名まえ)は、今まで企画の仕事が多かったよね。そろそろ企画の次の段階を経験することは、Tさんのこの先のキャリアのために絶対いいと思うよ」

 「次のキャリアのために」そんなこと考えたこともありませんでした。キャリアを切り開きたいなら、仕事は選ばなければならない。H氏の言葉はただがむしゃらに突っ走るしか能のなかった私に大きな気づきを与えてくれました。
 いや、そんなことより、ただの外注スタッフにそんな言葉をかけられるH氏はスゴイ!
 
 思い起こせばH氏は、私が乳飲み子を抱えている頃、決して午後遅くからの会議を設定しませんでした。そのためにほかのスタッフがスケジュール調整に苦労していても、「だってそれじゃTさんが参加できないでしょう」と、会議は5時までのルールを徹底し、誰にも文句を言わせませんでした。
 H氏のような人たちに支えられたからこそ、私は今まで仕事を続けられたのだなあと感謝せずにはいられません。

 ともあれ、私はその日からフリーライターの看板を下ろし、webマガジンという未知の世界の編集長として働くことになったのでした。

つれづれ連載第15回「20年、フリーライターやってます」~どんな人でも必ず面白いネタを持っている

 どんな人でも必ず面白いネタを持っている。
 20年フリーライターをしてきてそう確信しています。
 もし、大したネタが得られなかったら、それは相手が“つまらない人”なのではなく、自分の聞き方が悪かっただけのこと。

 頼まれて「取材の仕方」なる講座をさせていただくことがたまにあるのですが、「取材って緊張する」「どう聞けばいいかわからない」「うまく話が引き出せなかった」という声をよく聞きます。
 今でこそ、「今日はどんな面白い話が聞けるかしらん!!」とわくわくしながら取材に出かける私ですが、ライターになりたての頃は同じようなことで悩んでいました。
 ライターは1現場に1人いればいいわけだから、他のライターの仕事ぶりを見る機会はまずありません。やり方を習ったこともないし、自分の取材の仕方が正しいのか、他の人はどうやっているのかが、とても気になっていました。

 前回話した週刊誌の連載は、別のライターさんと週替わりで交代して担当しましたが、そのライターさん(Kさんとしましょう)と顔を合わせることはありませんでした。
 あるときふと編集者のMさんが、「Tさん(私のこと)の取材現場は静かで大人の雰囲気ですね~」と言いました。特に深い意味はなかったのかも知れませんが、当時自分のことを、「引っ込み思案、話下手、自分は取材には向いていないのでは」と思っていた私は、「あんたの取材は暗くてつまんない」と言われたような気がして落ち込みました。
 Kさんの現場はとても明るくて笑いが絶えないようなのです。きっとそういう現場のほうが、いいコメントも取れるだろうし、いい記事も書けるに違いない。でも、無理してキャラを作るのもしんどい。わからないなりに数をこなして、自分のやり方でいいんだ、と納得できるようになるまでにはずいぶん時間がかかったように思います。

 毎週の取材では顔を合わせることのなかったKさんですが、連載が単行本になるというときに初めて打ち合せの場で顔を合わせました。私より3、4歳年下ですが大学在学中からライターとして仕事をしていて、以来ずっとフリーライターをしているベテランでした。鞄も手帳もさりげなくブランド品。ファッションもどことなく個性的。これぞ成功しているライターさんという感じで、40近くになってまだ駆け出しの私にはただただ眩しすぎました。

 世間話の流れで「へえ~、メジャーな媒体にもいろいろ書いているんですね~」と言うと、Kさんは「はぁ?」とばかり目を見開いて、「っていうか、メジャーなのにしか書いたことないんだけど」。
 それが全然嫌な感じがしないのはKさんの根っから明るいキャラのせいでしょう。早口でポンポン飛びだす話は面白く、人を惹きつけてやまないものがありました。
 Kさんの言った、今も忘れられない言葉があります。
「この商売、楽しませてナンボですから」
 目からウロコのような気がしました。今まで私は、「自分がどううまくやるか」ということしか考えていませんでした。周囲を楽しませようという余裕などありませんでした。
 自分は暗いから、とか、引っ込み思案だから、とかどーでもいい。「楽しませるキャラ」にモードを切り替えて、現場に関わる人みんなが「今日はいい仕事ができたね」と満足できるような現場づくりに貢献すること。それこそがプロではないかと。「自分が上手に取材ができるか」ではなく、取材相手の方が「今日はいっぱい話ができてよかった」「聞いてくれてすっきりした」と思える取材にすることを考えるべきではないかと。
 Kさんはそう教えてくれたのだと思います。
 そして、たぶん、あの時から私は変わることができたように思います。
 

つれづれ連載第14回「フリーライター20年やっています」~ついに雑誌に連載を持つ

 小さな夢ですが、ライターになりたい、本を出したい、という夢をかなえて、次にかなえたのが「連載を持つ」という夢でした。
 これもはじまりは、突然の電話だったと記憶しています。担当は、結婚したばかり、30になったかならないかの女性編集者Mさんでした。連載の内容は、共働きカップルを取材して家事分担や仕事と育児の両立のコツを聞くというもの。それは、これから出産というライフイベントを迎えるかもしれないMさん自身の関心事でもあったのだと思います。
「なんで私に?」と聞くと、企画を立てたもののどうやって実現しようと悩んでいたら、上司が「この本の著者に連絡してみたら」と渡してくれたのが、私がつくった本だったというのです。どこに仕事のチャンスが転がっているかわからないものです。

 週刊誌だったので、万一に備えもう一人のライターとの2人体制で連載はスタートしました。ご自宅での取材OK、職場での撮影OK、ご夫婦&子どもの顔出しOK、すべての条件がそろう取材対象者を毎週毎週探すのが大変で、友人、知人、ママ友など、持てるネットワークを駆使してのアポ取り合戦。相手は働くカップルなので、取材はたいてい土日。保育園児たちを夫に預けての取材でした。いろんな意味で大変な連載だったのだけど、編集者の仕事ぶりを間近に見ることができたり、いろいろなカメラマンと組んだことは、とても勉強になりました。引っ込み思案で取材には全然むいてないキャラだった私(今では考えられない!)を鍛える日々でもありました。

 でも、なによりの収穫は、この連載を通して50組近くのカップルの育児&仕事ぶりを垣間見られたことでしょう。
 そもそも前の本を作った動機が、「よそさまは、どうやってこの苦難を乗り越えているのかしらん?」でした。50組も見れば、共働き成功の秘訣が見えてきます。
 取材に快く応じてくれたカップルたちはその時点で成功している人たちです。かれらには共通点がありました。
それは、
①両親が近くに住んでいて家事育児を助けてくれる
②夫が協力的である
③会社に理解があって勤務形態が柔軟
この3つのうちの少なくとも1つは満たしているということ。
3つとも満たしているという人はさすがにゼロでしたが、1つもあてはまらない、というカップルもまた、皆無でした。つまり、妻ひとりが孤軍奮闘しても、共働きは成功しない。絶対にだれかの助けがなければママが働くのは難しいのです。(どれもあてはまらないけど、やるしかないのよ、という人もいるかと思います。でも実際、とても大変なんじゃないかと思います。)
私の場合、①ナシ、②ナシ、でも、フリーランスだから働き方は柔軟です。なるほど、一つは満たしているんだから満足しなければ……と妙に納得しました。

 もう一つ、50組のカップルを見て気づいたことがありました。
 どのお宅にも
①食器洗い乾燥機がある
②洗濯乾燥機がある(今なら珍しくもないですが、、)
③生協の個人宅配の白い箱がドーンと玄関脇に積んである!
(買い物に行くヒマないから!)
 家事は極力手を抜く、しかも悪びれずに。これも成功の秘訣なのです。

 この取材で出会ったカップルから、数々の名ゼリフも聞きました。思い出すときりがないほどあるのだけど、珠玉のひと言は
「部屋が汚くても死なない」
でしょうか。
 もう一つ、「ほほ~」と感心したのは、
「子どもができたことで、この仕事でいこうと腹が据わった」
というセリフでした。
 30代、働きざかり、子どもがいないときは、今の仕事じゃなくてもっと大きなことにチャレンジできるかも、と迷っていた。でも子どもができて、「これが天職なんだ、欲を出さず今の仕事をしっかりやろう」と割り切れたと。子どもとは、いろいろなことを教えてくれるものです。
 
 1年続いたこの連載で、悲しいかな、ラクな両立法などない、ということもわかりました。みーんな大変なのです。それでもがんばる。そんな同志たちにたくさん出会えたことは、幸せと言わなければならないでしょう。
 この連載は、単行本にもなり、連載の原稿料と単行本の原稿料といただくという、1粒で2度おいしい仕事にもなりました。印税はつかなかったけど(笑)。

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